ボランティアから贈られた抗日戦爭記念メダルを身に著け、誇らしげな鄒道本氏
人民網(wǎng)はこのほど、「暖冬行動-抗日兵に愛と関心を」をテーマとする一連の年末特別報道を企畫した。年の瀬が迫ったある日、記者は、上海市閘北區(qū)天目西路大街にある老人ホームを訪れ、かつて抗日戦爭で戦った老兵?鄒道本氏と面會した。抗日戦爭、解放戦爭、反右派闘爭、文化大革命、改革開放―-。95歳になる鄒道本氏は、20世紀(jì)以來中國で起きた重要な歴史的事件のほぼすべてを體験してきた。昔を振り返り、鄒道本氏は、確固たる自分の考えを、悠然と語った。人民網(wǎng)が報じた。
【「資本家」2代目:筆を捨てて銃を取る。亡國の民には絶対にならない】
鄒道本氏の父親は、上海閘北で織物工場を経営していた。商売は順調(diào)だったが、舊日本軍の侵略によって、経営狀態(tài)は悪化の一途を辿った。抗日戦爭が全面的に始まろうとしていた1936年、當(dāng)時16歳の鄒道本氏は、上海にある私立の中華高校に通っていた。傍若無人を極めていた舊日本軍が南下し、上海市民は町も住民も滅ぼされるのではないかという大きな恐怖におののいた。國の仇を恨んだ鄒道本氏は、「私は心の底から、亡國の民だけにはなりたくないと思った」と話した。
そのような信念から、高校2年生だった鄒道本氏は、學(xué)問の筆を捨てて軍人となる道を選んだ。南京の陸軍機(jī)械化學(xué)校を受験して合格、戦車や機(jī)動車に関する機(jī)械工學(xué)を?qū)Wんだ。
1937年8月13日、「八一三」淞滬會戦(第二次上海事変)が勃発した。同年11月、上海は舊日本軍に占領(lǐng)された。これにより、抗日戦爭は、盧溝橋事変後の地域的衝突から中國全國を巻き込む戦爭となった。瞬く間に、舊日本軍は中華民國の首都?南京に向かい、虐殺?略奪?焼きつくしの限りを盡くした。
12月、鄒道本氏は學(xué)校と共に撤退し、學(xué)校は南京から湖南長沙に移転することになった?!笇W(xué)校の命を受け、我々は3人一組で車を運(yùn)転した。安徽宣城でも、舊日本軍による襲撃、略奪、逃走を目撃した。南京を離れて10日後、南京大虐殺が始まったと聞いた」と氏は振り返った。12月13日、日本軍は南京を占領(lǐng)し、6週間にわたって大虐殺を繰り広げた。この凄慘極まる歴史について、鄒道本氏は、「非常憤恨(大変憤り、恨んでいる)」の4文字で、自分の心情を吐露した。
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