張氏は、「非常に蒸し暑く、服は濕っては乾き、乾いては濕りを繰り返した。7時(shí)半頃になると雷が落ち、すぐに真っ暗になった。私たちは懐中電燈を持っておらず、攜帯電話(huà)のバッテリーも切れようとしていた。そのため、雷を利用して足元の道を確かめながら進(jìn)み、何度も転びそうになった。こうして5時(shí)間以上も這うようにして進(jìn)み、夜9時(shí)過(guò)ぎにようやく目的地に到著した。私の足は棒になっていた」と語(yǔ)った。張氏はテコンドー4段で、指導(dǎo)員を長(zhǎng)年務(wù)めておりたくましい體格をしているが、それでも震源地の険しい山道に苦しめられたという。
目的地は1萬(wàn)人弱が暮らす村で、地震によって崩壊していた。68人が犠牲になり、家屋の95%が破壊され、90%の家畜が死亡した。張氏は取材に対して、「ある村民は最も悲慘で、家族が地震で犠牲になり、一人きりになってしまった」と述べた。この村民は震災(zāi)発生時(shí)に、クウェートで出稼ぎ中だった。
「仕事中に友人から電話(huà)が入り、震災(zāi)のニュースを聞いた。私はすぐに家族のことを知りたいと思った。私の友人は口ごもり、『すまないが、助けることができなかった。あなたの家族はみな、倒壊した家の下敷きになった』と言った。この悪夢(mèng)を聞くと、目がぼやけて何も見(jiàn)えなくなった。しばらく何も言えなくなり、やむなく電話(huà)を切った。私はその晩、眠れなかった。私はすべての家族を瞬時(shí)にして失ったことが信じられなかった。66歳の母、25歳の妻、それから1歳半の娘が絶えず頭の中に浮かんだ。あの夜、私の涙は止まらなかった。私は震災(zāi)発生後の5日目に帰郷した。家が全壊し、廃墟になっており、私が見(jiàn)ても分からないほどだった」この村民は極度の悲しみにより、痛みに対して無(wú)感覚になっていた。
大災(zāi)害を前にして、自信は黃金よりも貴い。張氏は被災(zāi)者の苦しみに心を痛めたが、彼らに自信を?qū)盲堡?。張氏は、「私は要?qǐng)に応じ、スピーチを行った。私は、地震によってここで死ぬかと思ったが、生きていることを喜んでいると話(huà)した。M8.1の地震は、家を破壊し、家族を奪い去ったが、私たちをどうすることもできなかった。だから私たちは地震よりも強(qiáng)い。命を大切にし、自らの行動(dòng)により援助が必要な人に手を差し伸べなければならない」と語(yǔ)った。(編集YF)
「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2015年5月11日
このウェブサイトの著作権は人民日?qǐng)?bào)社にあります。
掲載された記事、寫(xiě)真の無(wú)斷転載を禁じます。
Tel:日本(03)3449-8257、080-5077-8156 北京 (010) 6536-8386