(二)中國(guó)はあくまでも南中國(guó)海における領(lǐng)土主権と海洋権益を斷固守る
23.南中國(guó)海諸島に対する中國(guó)の主権は20世紀(jì)までいかなる挑戦も受けなかった。20世紀(jì)の30年代から40年代まで、フランスと日本は前後して武力で中國(guó)の南沙諸島の一部の島嶼?礁を不法に侵略し占領(lǐng)した。それに対し、中國(guó)人民は奮い立って抵抗し、當(dāng)時(shí)、中國(guó)政府も一連の措置をとり、南沙諸島に対する主権を守った。
24.1933年、フランスは南沙諸島の一部の島嶼?礁に侵入し、官報(bào)で「占領(lǐng)した」と宣言し、「9つの小島事件」を起こした。それは中國(guó)の各地各界の強(qiáng)烈な反響を引き起こし、みんなでいっせいに抗議し、フランスの侵略行為に対する非難の聲が続々と上がった。南沙諸島に居住していた中國(guó)漁民も現(xiàn)地で抵抗し、符洪光、柯家裕、鄭蘭錠らは太平島、北子島、南威島、中業(yè)島などの島でフランスの國(guó)旗を掲げている旗竿を切り倒した。
25.「9つの小島事件」が発生した後、中國(guó)外交部のスポークスマンは、南沙諸島の関係島嶼には「わが國(guó)の漁民だけが居住し、國(guó)際的にも中國(guó)の領(lǐng)土だと認(rèn)められている」と表明し、フランスが9つの小島に侵入したことに対して中國(guó)政府は厳重に抗議した。同時(shí)に、広東省政府はフランスが中國(guó)漁民を惑わしだまし、フランス國(guó)旗を掲げさせたことに対して、各県の県長(zhǎng)に布告を出すように命令し、南沙諸島および関係海域で作業(yè)する中國(guó)漁船が外國(guó)の國(guó)旗を掲げることを禁止し、また漁民に中國(guó)國(guó)旗を配り、掲げるよう要求した。
26.外交部、內(nèi)政部と海軍部などの部門によって構(gòu)成された水陸地図審査委員會(huì)は、中國(guó)の南中國(guó)海諸島の各島嶼、礁、灘、沙の名稱を特に審査して決定し、また1935年に『中國(guó)南中國(guó)海各島嶼図』を編纂?出版し、公布した。
27.日本は中國(guó)侵略戦爭(zhēng)の期間、かつて中國(guó)の南中國(guó)海諸島を不法に侵略し占領(lǐng)したことがある。中國(guó)人民は日本の侵略に対して勇敢に抵抗した。世界反ファシズム戦爭(zhēng)と中國(guó)人民抗日戦爭(zhēng)が推進(jìn)され、中米英の三カ國(guó)は1943年12月に『カイロ宣言』を発表し、日本は盜み取った中國(guó)の領(lǐng)土を中國(guó)に返還しなければならないと厳粛に言い渡した。1945年7月、中米英の三カ國(guó)は『ポツダム宣言』を発表し、そのうちの第8條で「『カイロ宣言』の條件は必ず実施されなければならない」と明確に規(guī)定した。
28.1945年8月、日本は『ポツダム宣言』の無(wú)條件降伏を受け入れると宣言した。1946年11月から12月まで、中國(guó)政府は林遵大佐らの軍隊(duì)と政府の高官を派遣し、「永興」「中建」「太平」「中業(yè)」の4隻の軍艦に乗って、それぞれ西沙諸島と南沙諸島へ赴き、儀式を行い、改めて主権碑を立て、軍隊(duì)を派遣し駐屯守備させた。その後、中國(guó)政府は以上の4隻の軍艦名を用いて西沙諸島と南沙諸島の4つの島嶼に対して新たに命名した。
29.1947年3月、中國(guó)政府は太平島に南沙諸島管理処を設(shè)け、広東省の管轄下に置いた。中國(guó)はまた太平島で気象臺(tái)とラジオ放送局を設(shè)置し、6月から対外的に気象情報(bào)を放送し始めた。
30.南中國(guó)海諸島に対して新たに地理測(cè)量と地図作製を行った上で、中國(guó)政府は1947年に『南中國(guó)海諸島地理誌略』を編纂し、『南中國(guó)海諸島新舊名稱対照表』を?qū)彇摔筏茮Qめ、南中國(guó)海斷続線を標(biāo)記した『南中國(guó)海諸島位置図』を制作した。1948年2月、中國(guó)政府は『南中國(guó)海諸島位置図』を含む『中華民國(guó)行政區(qū)域図』を公布した。
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