1987年に脫サラ 深センで火鍋レストランをオープンさせ大繁盛
朱大明さんは重慶で工場作業(yè)員や教師、テレビ局での編集の仕事を経験し、1987年にマネジャーを務(wù)めていた華夏音像會社を退職し、新しい挑戦をするために身一つで深センへ向かった。
朱さんはまず飲食業(yè)に投資することを決め、すぐさまレストラン「大明火鍋城」をオープン。同レストランの名はたちまち世間に知れ渡り、たった半年で深センの人気レストランとなり、市民が連日行列を作った。
深センで一儲けした後、朱さんは歐米やアジアで視察を行った。その視察を通して外國では中國の飲食文化があまり知られておらず、中國語の看板を掲げたレストランが中國料理店であり、そこで出されるのが中國料理だと認(rèn)識されていることを知った。朱さんは本物の中國料理を外國へ持ち込み、世界中に中國の正式な飲食文化を普及させたいと考えるようになった。
擔(dān)擔(dān)麺と火鍋を日本で普及させる
重慶市外事僑務(wù)弁公室の魏司峰主任は、當(dāng)時(shí)、中國在福岡総領(lǐng)事館に勤務(wù)しており、重慶火鍋を日本に紹介し、本物の重慶の飲食文化を日本人に知ってもらいたいと考えていた。そんな折に同じ考えを持った朱さんと出會い、二人は意気投合し、重慶擔(dān)擔(dān)麺と火鍋を福岡で広めることとなった。
最初、日本人にとって重慶料理特有の舌がしびれるほどの強(qiáng)烈な辛さはやや馴染まなかったようで、辛さのあまり、口が合わさらないほどだったという。しかし日本人には美食を受け入れる寛容性があるため、舌がしびれるほどの強(qiáng)烈な辛さの料理でも、その味わいの獨(dú)特さから、リピーターとなり、次第にこういった味わいにも慣れていった。朱さんは「今では、ここのお客は四川料理を食べるのが習(xí)慣になってしまい、リピーターも多い」と語った。
また、「多くの日本人が私の店で生まれて初めて重慶火鍋を食べたという。私は九州地方で初めて本物の重慶火鍋と四川料理を普及させた人物だ」と自慢げに語った。
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