2010年4月、北京の釣魚臺で開かれた同窓會で、日本人の同級生たちと再會したときに撮影した寫真。
1953年初め、日本の赤十字會と中國の関係者の話し合いの末、第二次世界大戦中に中國に殘された殘留日本人を帰國させることが決まった。同年3月、日本人同級生たちも、別れを惜しみながら、両親と共に日本へ帰っていった。長年中國で暮らしていたため、同級生たちにとって、中國は第二の故郷となり、育った中國には深い思い入れがあった。彼らは帰國後も、たくさんの同級生や學(xué)校、仲が良かった友人らと連絡(luò)を取り続けた。八一中學(xué)(中高一貫校)の50周年と60周年記念の時、安達さんと田子和さん(結(jié)婚後は池谷田鶴子さんに改名)は、休みを取って北京を訪問し、記念活動や同窓會に參加した。日本人同級生の多くは大學(xué)卒業(yè)後、親と同じ醫(yī)療?衛(wèi)生の仕事に攜わるようになり、中日友好のために大きく貢獻してきた。安達さんは、日中醫(yī)學(xué)協(xié)會の常任理事長を、田子和さんは日中醫(yī)學(xué)協(xié)會の理事を、それぞれ務(wù)めたことがある。彼らの努力もあり、日本が無償資金援助を提供して、中日両國の政府は大型総合現(xiàn)代化病院「北京中日友好病院」を建設(shè)し、84年10月23日に開業(yè)した。また、87年に中國衛(wèi)生部(?。─热毡救罩嗅t(yī)學(xué)協(xié)會は、毎年、中國醫(yī)學(xué)界の青年醫(yī)師100人を選出して日本へ送り、1年間研修、學(xué)習(xí)、研究することで合意した。安達さんと田子和さんは中日友好のためにたゆまず働き、毎年、中日両國で何度も講演を行ったり、留學(xué)生や大學(xué)院生の選抜を行ったりしている。
2世代に渡って70年以上続いてきた「中日友好の調(diào)べ」は今もその音を奏でている。中日友好がこれかからも引き継がれ、永遠(yuǎn)に続くことを願っている。(編集KN)
「人民網(wǎng)日本語版」2016年11月7日
このウェブサイトの著作権は人民日報社にあります。
掲載された記事、寫真の無斷転載を禁じます。
Tel:日本(03)3449-8257
Mail:japan@people.cn