佐渡多真子さん
―――― デザイン會社のOL生活から、どんな経緯でプロのカメラマンになったのでしょうか?
デザイン會社で働いてみたものの、何か自分が求めているものと違うと感じて、シナリオの學(xué)校に行ってみたり、字幕の學(xué)校に行ってみたり、その間ずっと自分のやるべきことを模索していました。シナリオ學(xué)校には、週に一回通って、その度に宿題が出るんですけど、なかなか書けなくて。徹夜してようやく書き上げて、それを持っていくと、それなりに作品に対して評価はしてもらえたのですが、その時、もし私に才能があって、シナリオライターになったりしたら、こんなに辛い思いを毎日することになるなんて絶対に嫌だなとふと思ったんです。やはり好きなことじゃないと長く続かない。だったら、私には小さな頃から好きで続けている寫真しかないと思いました。
ただ、當(dāng)時會社を辭めるというのは、まだかなり勇気がいることで、大きな會社ではなかったんですが、女性の待遇もよく、年も25になってましたし、かなり悩みました。
実は、その頃、同期の中で一番早く主任に抜擢されたのですが、社長に呼ばれて、「君はよく頑張っているから、一番初めに主任にする。結(jié)婚しても、子供が生まれても、うちの會社でずっと働き続けていいんだよ。いずれは総務(wù)部長になるだろうし、期待している」と言われたときに、私の人生は何も失敗せずに、すごく順調(diào)に行って、総務(wù)部長の席に座って計算しているのが1番成功した形なんだという絵がぱっと見えたんです。その瞬間、これは私が望んでいる人生とは違うと思いました。何かやりたくても、勇気がなくてもんもんとしていていた私ですが、これにしがみついて、やりたいことをやらないほど、この職業(yè)が自分に合っているとは思えませんでした。
そんなときに、イモージン?カ二ンガムという米國人女性カメラマンが撮ったベッドと花のモノクロ寫真を見たんです。特にそのベッドの寫真はすごく良かったんですね。きれいなドレープがかかっていて、前の晩に誰が寢たんだろうと想像させるような、ロマンチックなもので、あぁこんな寫真が撮れたらいいなと思いました。寫真家のプロフィールを見たら、その寫真は作者が72歳で撮った作品だったんです。その時に、25歳から始めることは決して遅くないんだなと思ったんです。
それで、決心して會社を辭め、商品撮影で有名な寫真家のアシスタントにつきました。スタジオにはマネージャー、ファースト、セカンド、サードというランクがあったんですが、25、6になった大卒の女がこれまでの2分の1ぐらいの給與で、トイレ掃除などを擔(dān)當(dāng)するサードとして、一から仕事を始めました。
―――― プロのカメラマンとして日本ではどういう作品を撮られていたんですか?
初めての職業(yè)カメラマンとしての寫真は映畫関係の仕事から入りました。大學(xué)の時に所屬していた映畫研究會の友人で、同期が映畫?エンタメ情報誌「ぴあ」や映畫雑誌「キネマ旬報」に入社していて、みんな3年ぐらいたつと、映畫擔(dān)當(dāng)で第一線にたって、記者會見などに行くようになっていました。彼らか時々撮影で失敗してしまうから、記者會見で撮影をしてもらえないかと依頼されたのが始まりです。その時はプロとして撮影する自信がまだ無かったのですが、その友人に、「でも、カメラマンのアシスタントで何年も頑張って來たんだから、編集者の僕よりはうまく撮れるでしょ?編集者よりうまく撮れるなら、やってみたら?」と言われた一言が、私のカメラマン人生を開いてくれました。
その頃は、小さな細(xì)かい仕事でしたが、若いし、體力もあったので、いっぱい仕事がもらえました。當(dāng)時は、雑誌もまだ元気でしたし、一日3、4カ所記者會見を回って映畫監(jiān)督や俳優(yōu)の方々を撮影していました。まだ寫真を現(xiàn)像していた頃なので、夜12時ぐらいに帰宅して、そこから深夜2時3時まで現(xiàn)像作業(yè)を行って、それを編集部にFAXを入れて、絵が屆いてから寢る。そこから翌日の朝6時や7時に家を出て撮影に向かうという、毎日平均睡眠3、4時間という日々を送っていました。本當(dāng)に忙しかったですね。
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