佐渡多真子さん
初の北京在住日本人フリーカメラマンとして長きにわたり、第一線で活躍し続けてきた佐渡多真子さん。情緒的で美しい広告寫真や人物そのものを映し出すインタビュー寫真、AP通信社での女性の視點を活かしたニュース寫真、表情豊かなパンダやロバといった動物の寫真にいたるまで、活躍のフィールドは非常に幅広く、作品も多種多彩だ。共通するのは、作品の奧行きを感じさせる物語性だ。そんな佐渡さんに、カメラマンになった経緯や佐渡さんの目に映る中國の姿について伺った。
■10歳で一眼レフと出會ってから、カメラ漬けだった日々
―――― 現(xiàn)在フリーカメラマンとして活躍されている佐渡さんが、最初にカメラに觸れたのはいつのことなのでしょうか?
最初に寫真に興味を持ったのは小學(xué)校4年生の頃でした。その頃、クラスで寫真を撮ることが流行っていて、私も父が生まれたばかりの私を撮るために購入した舊式カメラを使って友人たちをよく撮っていました。はっきり覚えているわけではないのですが、すごく楽しかったんだと思います。どうしても一眼レフが欲しくなってしまいました。
その頃、「ミノルタSRT SUPER」というカメラが4萬6800円で売られているのを知って、これを買いたいと父に相談したら、10歳にはまだ早いと言われてしまいました。だったら、自分でお金を貯めて買おうと思い、お年玉やお小遣いを貯めた後、父に自分のお金でカメラを買うと宣言すると、父が會社の取引先で買ってきてあげると言ってくれました。
その日は、夜が待ち遠(yuǎn)しくて、早く父が帰ってこないかと家でワクワクしながら待っていました。それが、夕方に父から電話があり、「4萬6800円はボディだけでレンズはついてないから、もっとお金を貯めてから一緒に買ったらどうだ」と言われて大変ショックを受けました。その頃、カメラのレンズがボディーからはずれるなんて知らなかったんです。すっかり気持ちが盛り上がっていたので、とにかくボディだけでも買って來てほしいと頼みました。すると父が帰ってきて、ボディと一緒にレンズをプレゼントとして、渡してくれました。この日から、本格的に私のカメラとの関係が始まりました。
―――― 10歳で一眼レフとは早熟ですね。その後も、寫真との関係はずっと続いたんですか?
そうですね。その後、中學(xué)、高校でもクラブ活動で寫真部に入り、大學(xué)では映像や寫真好きが高じて8ミリ映畫を撮ったりと、ずっとカメラ漬けの日々を送っていました。高校卒業(yè)後は寫真専門學(xué)校に入ろうと思っていたのですが、親から大學(xué)じゃないとお金を出してあげないと反対され、普通の4年生大學(xué)に進學(xué)しました。卒業(yè)後も、寫真系の就職先を探したかったのですが、これも、カメラマンでは一生食べていけないと親から反対され、普通のデザイン會社の事務(wù)職として入社しました。ただ、その間も寫真を撮ることはずっと続けていました。
このウェブサイトの著作権は人民日報社にあります。
掲載された記事、寫真の無斷転載を禁じます。
Tel:日本(03)3449-8257、080-5077-8156 北京 (010) 6536-8386