中國のロックミュージックが誕生して今年で30年を迎える。今回は、中國ロックの黎明期に北京を訪れ、四半世紀にわたって中國ロックの発展に貢獻し、外國人でありながら中國ロックの歴史に名を刻む日本人ドラマー、ファンキー末吉さんをご紹介したい。
中國ロックは、今から30年前の1986年5月9日、「中國ロック界の父」と呼ばれる歌手?崔?。ē磨?ジェン)が、連合國國際平和年を記念して北京工人體育館で開催された第一屆百名歌星演唱會(第一回100人歌手コンサート)で「一無所有(俺には何もない)」という名曲を歌ったときから始まる。後に中國ロックは紆余曲折を経ながら広まりを見せ、米國ロックの40年の歴史をわずか10年の間に駆け抜けていった。その黎明期に當たる1990年に北京を訪れ、中國ロックの発展を支え、その盛衰を見屆けてきた人物がファンキー末吉さんだ。現(xiàn)在でも中國の一流音楽プロデューサーらと共に數(shù)々の名盤のレコーディングを手がけ、著名な中國人歌手のバックバンドを擔う日々を送っている。
「90年の北京は、街に長髪の若者もいなければ、ロックを演奏できる場所もやや限られていた。當時偶然出會ったのが黒豹(ヘイバオ)というバンドで、そうした環(huán)境の中でロックに情熱を捧げる彼らに感銘を受けた」と當時の様子を振り返る。日本語が乗るとどうしてもJ-POPになり、ニュアンスがやや変わってしまうのに対し、中國語のロックというものが「好聴(ハオティン?聴き心地がいい)」だったことにも大きな魅力を感じたという。
當時黒豹でキーボードを擔當し、後に中國での音楽活動の苦楽を共にしてきた「戦友」が、現(xiàn)在中國で最高峰の音楽プロデューサーとして活躍する欒樹(ルアン?シュ)だ。當時メンバーで唯一英語が話せたことが交流のきっかけだった。今日までの26年間の「ファンキーの中國活動史」を如実に知る人物でもある。欒氏は、「ファンキーさんは我々の師範であり兄でもある。彼の音楽に対する姿勢や熱意は、中國のミュージシャンの誰もが見習うべき雛形だ。中國には経済的に困窮する若手ミュージシャンがたくさんいるが、そんな若者たちに対し一度たりとも金銭的要求をすることなく無私の精神でサポートを提供してきた。コンサートでも彼がいれば安心できる。彼の存在は質の保証そのものとなっている」とファンキーさんの貢獻を讃える。
しかし、一方的に獻身してきたわけではなく、むしろこの26年間に中國から與えてもらったものの方が大きいとファンキーさんは言う?!溉毡兢扦媳Lスランプの一人として、蕓能人のように扱われ、ひどい時にはサインを求められても『爆風で何をやっている人なんですか』と尋ねられる始末。ドラムの技術など評価されない居心地の悪い思いを長年してきた。しかし、中國に來てみると、爆風スランプという存在など誰も知らず、純粋にドラムが上手い人としてスポットが當てられ、外國人でありながら中國ロックの歴史にその名を刻むドラマーとなった。日本ではバンドの名聲の裏で虛像だけが獨り歩きし、誰も見てくれなかった実像を中國でやっと手に入れることができた」と胸の內を明かす。
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